貫華齋

西遊記・金聖歎・中国古典小説

「河童の沙悟浄」のはじまり

 前項で述べたとおり、「河童の沙悟浄」という認識は日本オリジナルということで、これまでにも何人かの研究者が研究対象にしています。とりわけ、沙悟浄を河童と見なす表現が、書籍の中にいつから見られるのか、その源流を探る書誌的な研究は、すでにある程度の成果を挙げています。

 まずこの問題に取り組んだのは、堀誠氏です。堀氏は1988年に「河童の沙悟浄」(早稲田大学図書館報『ふみくら』15)で、児童書西遊記に「河童の沙悟浄」が登場したのが、昭和7(1932)年3月刊の『孫悟空』(少年講談5、大日本雄弁会講談社)の「河童の化物沙悟浄」という一段であることを指摘しました。その登場シーンは次のように書かれています。

スーッと浮き上がつたのは、腰に九つの髑髏をつけ、寶馬といふ槍を抱へ、頭に皿を乗せた河童の化物。恐ろしい顔をして出て來た。

はっきりと「河童」といっていますね。また、この本の沙悟浄は自分で「私は河童でございます」と言っている箇所もあります。 挿絵も河童風と言っていいでしょう。

 私も現在のところ、児童書西遊記の中で、この本よりも早く沙悟浄を「河童」としている本を見たことはありません。

 シリーズ名に「少年講談」という言葉がつく児童書には、ほかにも沙悟浄を河童としているものがあります。例えば昭和29(1954)年刊行の少年痛快公団全集『孫悟空』(太陽社)、昭和30(1955)年刊行の少年講談全集13『孫悟空』(大日本雄弁会講談社)などがそれに当たります。

 堀氏は、さらに遡って明治11(1878)年初演の歌舞伎、三世河竹新七の『通俗西遊記』(三場)に「川童ならねど」という表現が見られることから、この「河童ではないが(河童に似ている)」という「類比」が後に「河童の~」という「比喩」に変化したものであろうと考えました。

 その後、佐々木睦氏が「日本版『西遊記』に関する一考察」(勝山稔編『小説・芸能から見た海域交流』東アジア海域叢書三、汲古書院、2010年)において、明治31(1898)年の桃川燕林の講談『西遊記』の中で猪八戒が沙悟浄のことを「河童」と言っていること、明治35(1902)~36(1903)年頃の松林円照の講談『西遊記』に「首に九つの髑髏をつけ宝馬(ほうめ)という槍を抱えて、頭に三枚の皿を乗っけたこれぞすなわち河童の化け物」とする表現が存在することを指摘し、書籍の文中で沙悟浄を「河童」と直接表現する初出を明治時代まで引き上げました。

 佐々木氏はさらに、西遊記そのものではないのですが、馬琴が西遊記を翻案した『金毘羅船利生纜(こんぴらぶねりしょうのともづな)』(文政7(1824)~天保2(1831)年)の中で、西遊記の沙悟浄に比定される鵜悟浄というキャラクターの挿絵が河童のような姿(文中では「海坊主」)になっていることも指摘しています。

 したがって、翻案作品の挿絵にまで範囲を広げれば、日本に『西遊記』が輸入された後の早い時期から、沙悟浄を河童と結びつける考え方があったことがわかります。『西遊記』全体の翻訳(『画本西遊全伝』が最初とされる)が完成するのが天保8(1837)年とされていますので、それ以前からということになりますね。

 以上の研究をまとめると、当初翻案(の挿絵)・戯曲など、『西遊記』を直接翻訳したものではない、従って自由度が高く、変更を加えやすい作品の中で、かなり早い時期に沙悟浄と河童を結びつける考え方が生まれ、その後、講談(以外にもあったかもしれませんが)の西遊記で「河童の沙悟浄」というキャラクターになり、それがさらに「少年講談」という児童書の一つのジャンルを経て児童書西遊記の領域にも流れ込んだのだ、ということになるのでしょう。

 以上、「河童の沙悟浄」という認識が児童書に流れ込むまでの流れを、先行研究の紹介を通して説明してみました。

 次は、児童書西遊記にも現れた「河童の沙悟浄」が、その後、どの時期に、どの程度児童書の中で定着していったのか、その移り変わりについてお話したいと思います。

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