伊藤貴麿関連資料(16)「竹青ものがたり」

今回は、『聊斎志異』巻十一「竹青」の翻訳です。行き倒れてカラスになり「竹青」という名の雌カラスとつがいになった男の話ですが、その後も紆余曲折があります。

管見の及ぶ範囲では、金の星社の『六年生の世界童話』世界童話名作選(1954年)が初出のようで、ここに掲載した文章も、これに拠っています。その後、一度「竹青」のタイトルで『少年少女のための世界文学宝玉集』上(宝文館、1956年)に掲載され、再び「竹青ものがたり」のタイトルで『中国童話集』世界児童文学全集12(あかね書房、1959年)、『世界童話六年生』(金の星社、1961年)に掲載されています。

竹青ものがたり

 湖南省に、魚容という若者がありました。ある年、都へのぼって、官吏になる試験をうけましたが、不運にも落第し、そのうえかえってくる途中で、路用のかねもなくなつてしまいました。しかし魚容は、そだちがよかっので(ママ)、道々ものごいしてあるくのがはずかしくて、そんなことはとてもできません。そんなわけで、ひどくひもじくなり、富池鎭というところの、吳王廟というお宮まできたときには、とうとう、立ってもいられないくらいになりました。
 ここで、このお話に関係のふかい、吳王廟のことを、ちょっと申しておきましょう。

 吳王廟は、洞庭湖にそそぐ、楚江という川にそった、富池鎭という町にあります。三国時代(千六七百年前)の吳の国の将軍だった甘寧という人をまつったお宫で、宋(八百数十年前)のとき、神風をふかせて、船の往復をたすけたというので、評判になりました。それからというもの、日本でいえば、金比羅さまのように、船のりの神さまとしてあがめられ、たいそうあらたかだということでした。そこで船が廟のまえの川すじをすぎるときには、かならずお参りして、水路の平安をいのるのが例となっています。
 廟のかたわらの林には、数百羽ものカラスがすんでいて、往来の船がありますと、二、三里(中国の一里は、三分の二キロメートル)も遠くから出むかえて、帆柱のうえで、むらがってさわぎます。すると船中の人々は、おもいおもいに肉を空中に投げあげます。カラスのむれはこれをうけて、百にひとつも落さないということです。船びとたちは、このカラスたちを、吳王の神の使だといつています。――
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