李贄と金聖歎は共に明代に於いて『水滸伝』を高く評価した人物であるが、宋江に対する評価など、幾つかの点で両者の見解は大きく異なる。その主たる原因として、『水滸伝』を読む際の「大局」と「微細」という視点の相違を指摘することができる。しかしこのような視点の相違を「生み出した原因」については、未だ詳細な分析や整理が行われているとは言い難い。小論はこの視点上の相違が生じた原因をそれぞれの思想背景の相違に探るべく、両者の「読書論(作品の読み方)」に対して検討を加えたものである。
まず、李贄の読書論を検討した結果、作品を客観的に理解しようとするというよりも、読者自身の主観を主体として、これに作品を照らし合わせる形で読書を行うという特徴が見出せた。この読書の方法は、王陽明も『伝習録』において主張していることから、李贄の読書論は陽明学的読書論と言うこともできる。そして『水滸伝』に対する読みもこの方法に基づいて行われた結果、当時の情況や李贄自身の関心などもあって、国家に関する憤りの表れた部分に共感し、人物評価についても国家等の広い、大局的な視点から行うことになったと考えられる。
一方、金聖歎は、当時中国において読書論の基礎と見なされていた「格物」についての理解に於いて、いくつかの点で朱子学側に近いと思われる解釈を採用している。
朱子学的格物論では一つ一つの理を窮めて行き、それがある程度まで集積した時、豁然と貫通するように全体の理を窮めるというプロセスをとる。個々の人物の言動をつぶさに観察するなど『水滸伝』本文の一文一句にまで拘った金聖歎の読書論は、この朱子学的格物論に基づいた読書論であるといえるのではないか。
つまり『水滸伝』を読む際に李贄と金聖歎の間に生じた「大局」と「微細」という視点の相違には両者が読書に際して採用した格物論の差異が深く関連していると思われるのである。