王應奎『柳南随筆』巻三より「金人瑞」

金人瑞,字若采,聖歎其法號也。少年以諸生爲游戲具,補而旋棄,棄而旋補,以故爲郡縣生不常。性故穎敏絶世,而用心虚明,魔來附之。某宗怕天台泐法靈異記,所謂「慈月宮陳夫人,以天啓丁卯五月,降于金氏之卟者」,即指聖歎也。聖歎自爲卟所憑,下筆益機辨瀾翻,常有神助。然多不軌于正,好評解稗官詞曲,手眼獨出。初批水滸傳行世,崑山歸元恭見之曰:「此倡亂之書也!」繼又批西廂記行世,元恭見之又曰:「此誨淫之書也!」顧一時學者,愛讀聖歎書,幾于家置一編。而聖歎亦自負其才,益肆言無忌,遂陷于難,時順治十八年也。初,大行皇帝遺詔至蘇,巡撫以下大臨府治。諸生從而許吳縣令不法事,巡撫朱國治方暱令,于是諸生被繫者五人。翌日,諸生羣哭于文廟,復逮繫至十三人,俱劾大不敬,而聖歎與焉。當是時,海寇入犯江南,衣冠陷賊者,坐反叛,興大獄,廷議遣大臣即訊,并治諸生。及獄具,聖歎與十七人俱傅會逆案坐斬,家產籍没入官。聞聖歎將死,大歎詫曰:「斷頭,至痛也。籍家,至慘也!而聖歎以不意得之,大奇!」于是一笑受刑。其妻若子,亦遺戍邊塞云。

底本:清代史料筆記叢刊
『柳南随筆 續筆』
王彬・嚴英俊点校
(中華書局、1983年)

玄奘寺刊西川満訳『西遊記』全五冊について

ちょっとおもしろい西遊記が手に入ったのでご報告。

 

台湾中部の有名な観光地である日月潭の近くに、玄奘寺というお寺がありますが、そこが1962年6月に刊行した西川満訳『西遊記』全5冊です。

 

西川満(1908-1999)は、会津で生まれ、幼い頃に当時日本領だった台湾に渡り、台湾で育ち、早稲田大学に進学した後、帰台して台湾日日新報社に入社、文芸雑誌を発行するなど、終戦前の台湾の文壇で影響力を発揮した作家です。戦後は日本で活動しました。

 

彼が書いた「西遊記」は、彼が勤めていた台湾日日新報社から発行された『国語新聞』創刊号(1940.09.25)から「劉氏密」の筆名で連載を開始し、途中病気による休載や紙名の『皇民(みたみ)新聞』への変更などを経て、『皇民新聞』第423号(1943.06.18)にて381話で完結したものが最初です。

 

それに手を入れて、連載途中の1942年2月11日に臺灣藝術社から『西遊記』上巻が刊行されました。『わが越えし幾山河』(人間の星社、1983年)の記述によると(原本が見られないので、中島利郎氏の『台湾の児童文学と日本人』からの孫引きですが)、本来「上」「中」「下」の3冊にするつもりが、「上」巻が出たあとに、売れ行きが良いので全4冊にしてくれと言われ、「上」「元」「燈」「會」の4冊にし、さらに全5冊にしてほしいとこことで「上」「元」「燈」「大」「會」としたそうです。確かに、今回入手した本の、「元」巻(2冊目)に載っている「序」には次のような言葉がでています。

 

宮田彌太朗畫伯は、四冊の装幀として、上の巻に孫悟空、元の巻に猪八戒、 燈の巻に沙和尚、會の巻に三法師を描くといふ。善哉、この四冊を座右に具へ、不斷に四人の繪像を眺めて、われわれも亦、強く、明るく、正しく生きてゆかう。
つまり、この本のもとになった、臺灣藝術社版の2冊目が出た時(1942年5月)は、まだ新聞連載の途中でしたが、全4冊になることが決まった後、全5冊にしてほしいと言われる前の時期だったのでしょう。「大」巻(4冊目)に載っている「序」には次のような言葉がでています。

 

なほこの『西遊記』は、はじめ上元燈會の四巻に致す豫定で居りましたが、四巻ではたうてい収めきれなくなつてしまひました。それかと云つて、 せつかくの面白い物語を省略するのも残念に思ひますので、版元の希望もあり、上元燈大會の五巻に致すことにしました。
この「序」が書かれた連載終了後の1943年秋頃に(6月に終了した連載の分量を見て?)5冊になることが決まったのかな、と思います。

 

臺灣藝術社版全5冊のうち、「」・「」の2冊は、國立臺灣圖書館に所蔵されているようです(未見)。

 

日本への引き揚げ後、これを「百花の卷」「火雲の卷」「草龍の卷」の3冊にしたものが、1947年から1948年にかけて八雲書店から、そして新小説文庫131-133として、1952年に新小説社から刊行されています。ただし、これらは最初から全3冊にする予定ではなかったようで、新小説社文庫版版の「百花の卷」の「あとがき」には以下のように書かれています。

 

わたくしは「百花の卷」「火雲の卷」「草龍の卷」「瑠璃の巻」を編んだのでありますが、これが譯述にあたっては、清の悟一子、陳士斌の評のはいつた、光緒十年、上海掃葉山房版「西遊眞詮」を手もとに置き、この 氣もちのよい木版本を主とし、別に民國廿二年刊の廣益書局の活字本「西遊記」を参考としながら、いたずらに拘泥することなく、自分の思うままに筆を執りました。
ここで挙げられた「瑠璃の巻」は、鳥居久靖氏が「続・我が国に於ける西遊記の流行」で指摘されているように、どうやら刊行されなかったようで、どの目録にも見当たりませんが、3冊目に当たる「草龍の巻」が、原本第77~78回の「比丘国」の話で終わっていることからも、やはり出版予定はあったのだと思われます。

 

刊行された「百花」「火雲」「草龍」も所蔵図書館が少なく、国立国会図書館サーチで見つけられるのは、以下のようにそれぞれ幾つかの図書館のみです。

 

1947.05.30 八雲書店(1: 百花の卷)
1947(?) 八雲書店(2: 火雲の卷)
1948.09.01 八雲書店(3: 草龍の卷)
1952.01.25 新小説社、新小説文庫131(1: 百花の卷)
1952 新小説社、新小説文庫132(2: 火雲の卷)
1952 新小説社、新小説文庫133(3: 草龍の卷)
このうち、「新小説文庫131( 百花の卷)」だけは、私も所有しています。

 

その後、冒頭に述べたように、1962年6月に玄奘寺から刊行されたのが、今回入手した「西遊記」全5冊です。玄奘寺が付けた「序」に書かれた刊行の経緯によると、1961年の初め、台南の王彰さんという方が、「60年前に」「新聞に連載された絶版の日本語西遊記」を持ち込み、それを「東瀛の人士が我が国の名著を鑑賞し、研究する機会とし、さらに仏法の広がりを促進する」ために刊行した、との事です。

 

「60年前に」というのは記憶か印刷の誤りで、実際には20年前のもの。「絶版」とあるので、持ち込まれたのは新聞ではなく、臺灣藝術社版の書籍ではないかと思います。印刷は、後の4冊はあまり問題ないのですが、「上」だけは痛みが激しかったのか、p.224以降の偶数頁、2~4行目の3~15文字目あたりには、かけた部分の文字を後で埋めたため、意味が通じなくなっているところがあります。昔よく商品説明で見かけた、表記を誤った日本語みたいな感じです。

 

なお、その後この本を「上冊」「中冊」「下冊」の3冊にまとめたものが、1989年9月に出版され、日本では東京都立多摩図書館に所蔵されています。私の記憶では、表紙は同じだったと思います。コロナが収束したら、5冊本「上」巻の、読めなくなっている箇所が、3冊本では読めるようになっているのか確認しに行きたいものです。台湾へも『國語新聞』や臺灣藝術社版を探したり、玄奘寺で今でも売っているのか、確認しに行きたいです。もし、情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非ともご教示の程、お願いいたします。

 

参考文献
鳥居久靖「続・我が国に於ける西遊記の流行」(中文研究6、1966年)
中島利郎『日本人作家の系譜 日本統治期台湾文学研究』(研文出版、2013年)
中島利郎『日本統治期台湾文学研究 台湾の児童文学と日本人』(研文出版、2017年)

飯塚朗訳『情史 中国千夜一夜物語』目次

馮夢龍『情史』の訳書を探していて、飯塚朗訳『情史 中国千夜一夜物語』(新流社、1947年)を購入しました。
探している時に、どの挿話が収められているのかが判らなかったので、ここに目次を掲載しておきます。

范希周(山賊の妻なれど)
申屠氏(ある漁師の妹)
張小三(娼妓のまごころ)
王善聰(男装の麗人)
趙判院(名妓瞥見)
蘇城丐者(蘇城の乞食)
江情(江上の戀)
劉堯擧(舟子の娘)
紅拂妓(紅拂を執る女)
許俊(柳は風に)
凌延年(遊蕩兒)
杜枚(詩人餘聞)
謝希孟(有情學者)
王 元 鼎 (女ごころは)
長沙義妓(長沙 の 義妓)
啞娼(啞藝妓)
老妓(老妓)
圖形詩(繪畫と詩篇)
寄內詩(妻に寄するの詩)
寒梅(寒梅)
孟姜(長城の恨)
司馬才仲(夢で來る女)
王生(えにしの夢)
西湖女子(西湖の女)
楊玉香(葉末の玉)
心堅金石(心の化石)
雙鶴(めをと鶴)
趙汝丹(戀の道草)
于祐(紅に題す)
非烟(貞操問答)
金山僧惠明(女の復讐)
鉛山歸(嵐の夜話)
蘇子鄕(蘇武餘話)
趙淸献(將軍有情)
散樂女(鳥迫ひ女)
張紅紅(女樂士)
滿少卿 (呪殺された滿郞)
舘陶公主(妃殿下色ざんげ)
魏靈太后(魏の太后)
王鉄(裏からのぞいた役人)
章子厚(男地獄)
林澄(戀塚)
雲英(逢初橋由來)
劍仙(女仙劍の舞)
花麗春(髑骼の化粧)
翠薇 (琴に慕ひ寄った女)
桂妖(桂の精)
菊異(菊の 精)
龍陽君(龍陽石)
朱凌谿(朱凌谿)
譚 意 歌 (うき川竹)
雁(雁の話)
燕(燕の話)
虎 一(虎の話其の一)
虎 二(虎の話其の二)
情盡橋(柳橋)
狂燭(狂燭)
醉輿妓圍(醉輿と妓圍)


奥野信太郎訳「新訳西遊記 豚が道普請をした話」について

同学社の発行する「TONGXUE」第57(2019年春)号に、平井徹「奥野信太郎訳と『西遊記』」という文章が掲載されていました。これによると、「苦楽」という雑誌の第4巻第4号(1949年4月)に奥野信太郎訳西遊記が掲載されているということでしたので、「日本の古本屋」で検索してみたところ、それほど高価でもなかったので購入しました。また、検索時に、同1号にも奥野氏の文章が載っていることが判ったので、併せて購入したのですが、こちらに掲載されていたのは「柘榴の庭」という小説で、これはこれで面白かったものの、西遊記の翻訳ではありませんでした。

平井氏も書かれているとおり、「苦楽」 第4巻第4号に掲載された「新訳西遊記 豚が道普請をした話」(以下「新訳」)は、『西遊記』第67回「拯救駝羅禪性穩 脫離穢汚道心清」、いわゆる「稀柿衕(きしどう)」の話の全訳で、文末の「附記」にも「以上は西遊記第六十七回の全譯である」と、その旨記されています。

底本は、『西遊真詮』や『証道書』に無い箇所が訳出されていることから、繁本だと思われ、「附記」に、

最近わたしは明刻李卓吾本の西遊記を入手して、李卓吾の批評をおもしろく讀んでゐるが、およそこれら牽强附會の多い諸批評は、一のエッセイとしてみるとまた別の意味で興味の深いものである。

と、李卓吾評に触れているので、この明刊の李卓吾評本かもしれません。

さて、書籍として刊行されている奥野訳西遊記は、筆者の知る範囲では、以下の3冊があります。

このうち、3番目に挙げたものは絵本で、雑誌「苦楽」に掲載された「稀柿衕」の話は掲載されていません。そして、前者2冊は、「西遊記」はもとより、収録された他の作品(中国民話・中国少数民族民話・蒙古民話・朝鮮民話・台湾民話・東南アジア民話、訳者はそれぞれ異なる)も含めて全く同内容の本です。そしてこの2冊(以下まとめて「全集」とする)には「稀柿衕」の話が「ぶたの道ぶしん」として収められています。

そこで全集の文章が全訳とどのように異なるのか、少し比較してみました。その結果、どうやら全集に掲載された文章は全訳の文を抜粋してつないだもののようです。冒頭部分を例にとると、以下の全訳の文から、下線を引いた部分を抜き出してつなぎ、少し言葉を加えたり、表現を変えたりすれば(赤字の部分)、全集の訳文になります。

【全訳】
 さて三藏法師たち四人は、小西天をはなれ喜び勇で進んでいつた。かれこれ一月ほどの旅程を經て、ちやうど春も深まり花は散るころとなつた。樹々に綠のいろ濃く、雨後黄昏の、趣はまた格別であった。三藏は馬をとどめて、
 ――どうやら暮ちかいが、宿りはどこに求めたものぞ。
 ――お師匠さま御安心めされ、宿るところがなくともわれわれ三人はいささか腕におぼえもあります。猪八戒が草を刈り、沙悟淨が松の木を倒し、このわたくし奴が番匠の役を勤め、かうして草の庵を結びますならば、一年がほども滯泊は自在、お急きになるにもあたりません。
 と、孫行者がいへば八戒は
 ――兄貴、こんなところ泊れたものぢやねえ、虎狼に豹に蟲、魍魎木靈の妖怪だらけ、眞つ晝間だつて步きたかあねえものを、ましてや夜の泊りなんぞ‥‥
 ――馬鹿奴が‥‥出りや出るほど勇氣百倍、俺は大きな口をたたくわけぢやねえが、この棒が手にあるからには、たとひ天が落ちてこようつたつてどつこい支へてみせられるといふものさ。と行者はいつた。
 こんな論議をやつてゐる最中に、ふと間近かに一軒の山莊がみえた。行者は
 ――しめた!泊るところがあるぞ!
 ――どこに?と三藏。行者はかなたを指ざして
 ――あの樹立のなかは人家ではありませぬか、あすこへいつて一夜の宿を求め、明朝出立といたしませう。
 三藏は喜んで馬を急がせ、門前までいつて馬をおりた。門靡がかたく閉つてゐる。三藏が
 ――お賴み申します、お賴み申します。と
打ちたたくと、なかから一人の老人が出てきた。

【全集】
 さて三藏四人は、それからさらに旅をかさねるうち、いつしか冬はさり、春も花おちるころとなつた。樹々に綠のいろ濃く、雨後黄昏の趣はまた格別であ。三藏は馬をとどめて、
「どうやら暮ちかいが、こよいはどこにとまろうか。」
みれば間近かに、一軒の山莊がある
「しめた!泊るところがあるぞ」
と、悟空がかなたを指させば、三藏は喜んで馬を急がせ、そのその門前にきて
「お賴み申します、お賴み申します。」
と、とびらをたたくと、なかから一人の老人が出てきた。

といった感じです。また、引用真ん中あたりの、「お師匠さま御安心めされ」~「こんな論議をやつてゐる最中に、」の部分のように、全集では大胆に切り捨ててしまったところも見られます。

これらはおそらく、他の章との分量のバランスや、子ども向けであること、10年以上の時を経て言葉遣いが変化していること、などを考慮してなされた編集であろうと考えられますが、私のように既に大人であり、この時代の文章にもある程度慣れている者としては、やはり「全訳」のような省略の無い形のものの方がうれしいです。

全集には、五行山以前の部分や平頂山(金角・銀角)、火焔山(牛魔王)など、稀柿衕以外の部分も当然掲載されているのですが、これらの部分やそれ以外の部分で、もし全訳されたところあるのだとしたら、是非読んでみたいところです。

前掲平井氏の文章に、西遊記の全訳が「中央公論社から刊行される予定であったそうだが、結局未完のまま出版されずじまいになってしまった」と書かれていましたが、たとえ未完であっても、出来たところまででも読んでみたかったなあ、と思います。翻訳がある程度まで進んでいれば、西遊記の場合「三蔵一行の旅は、まだまだ続くのであった」とか「天竺はもう目の前である」といって終わらせることもできる訳だし...。

原稿が残ってて、どこかから出ないですかね?


伊藤貴麿関連資料(16)「竹青ものがたり」

今回は、『聊斎志異』巻十一「竹青」の翻訳です。行き倒れてカラスになり「竹青」という名の雌カラスとつがいになった男の話ですが、その後も紆余曲折があります。

管見の及ぶ範囲では、金の星社の『六年生の世界童話』世界童話名作選(1954年)が初出のようで、ここに掲載した文章も、これに拠っています。その後、一度「竹青」のタイトルで『少年少女のための世界文学宝玉集』上(宝文館、1956年)に掲載され、再び「竹青ものがたり」のタイトルで『中国童話集』世界児童文学全集12(あかね書房、1959年)、『世界童話六年生』(金の星社、1961年)に掲載されています。

竹青ものがたり

 湖南省に、魚容という若者がありました。ある年、都へのぼって、官吏になる試験をうけましたが、不運にも落第し、そのうえかえってくる途中で、路用のかねもなくなつてしまいました。しかし魚容は、そだちがよかっので(ママ)、道々ものごいしてあるくのがはずかしくて、そんなことはとてもできません。そんなわけで、ひどくひもじくなり、富池鎭というところの、吳王廟というお宮まできたときには、とうとう、立ってもいられないくらいになりました。
 ここで、このお話に関係のふかい、吳王廟のことを、ちょっと申しておきましょう。

 吳王廟は、洞庭湖にそそぐ、楚江という川にそった、富池鎭という町にあります。三国時代(千六七百年前)の吳の国の将軍だった甘寧という人をまつったお宫で、宋(八百数十年前)のとき、神風をふかせて、船の往復をたすけたというので、評判になりました。それからというもの、日本でいえば、金比羅さまのように、船のりの神さまとしてあがめられ、たいそうあらたかだということでした。そこで船が廟のまえの川すじをすぎるときには、かならずお参りして、水路の平安をいのるのが例となっています。
 廟のかたわらの林には、数百羽ものカラスがすんでいて、往来の船がありますと、二、三里(中国の一里は、三分の二キロメートル)も遠くから出むかえて、帆柱のうえで、むらがってさわぎます。すると船中の人々は、おもいおもいに肉を空中に投げあげます。カラスのむれはこれをうけて、百にひとつも落さないということです。船びとたちは、このカラスたちを、吳王の神の使だといつています。――
“伊藤貴麿関連資料(16)「竹青ものがたり」” の続きを読む