作者について

 こんにちは。井上浩一と申します。仙台と福島の大学で、非常勤講師として主に中国語を教えつつ、明清小説に関する研究をしています。

・ 学歴
・ 教育履歴
・ 研究業績

・ researchmap : 研究者情報サイト【外部リンク】

半生

 両親の実家がある大阪府で長男として生まれ、三重県で育ちました。4学年年下の弟がいます。小学4年生の時に、父の転勤で、沖縄県へ。沖縄で3年間暮らし、中学1年生の時に三重県に戻りました。親が三重県人ではなく、自分も郷土の地理・歴史を習う学年を沖縄で過ごしたので、三重県のことを実はあまり知らなかったりします。

 三重県立津高校を卒業し、広島大学文学部に入学。中国語学・中国文学を専攻しました。高校・大学では吹奏楽部・吹奏楽団に所属し、トロンボーンを担当。卒論や就職活動がまだ始まっていなかった1~3年生の間は(当時はまだ一応バブル期で、就職活動は4年生からでOKでした)、勉強よりもそちらを熱心にやっていました。

 大学3年生の定期演奏会(1月)をもって吹奏楽団を卒団し、卒業論文を書き始めると、中国文学について考えることも楽しくなってきたのですが、卒業後は大学院に進学せず、名古屋に本社を持つ某書店に入社しました。実は当時、一般の(大学ではない)仕事と学問を両立する「在野の研究者」というのに憧れていたのです。この時期は、仕事をしつつ学会に参加させていただいたりしていました。

 しかし、仕事と学問の両立という事を実際にやってみると、時間的・体力的・能力的になかなか厳しく、結局約2年働いた後、大学院へ進学することを決めました。

 当時新設だった東北大学大学院国際文化研究科に拾っていただき、仙台に住むことになったのが1993年。1995年に博士前期(修士)課程を修了し、博士(後期)課程に進学。翌年、ほとんど読解しかできなかった(それも決して高いレベルではなかった)中国語の能力を、特に会話の面でもうちょっとマシにしようと台湾に留学しました。台湾では大学院の後輩の実家に下宿させてもらい、日本語教師のアルバイトをしながら師範大学の国語センターで学んでいました。留学中の1997年にその後輩と結婚、彼女を連れて帰国しました。

 帰国の翌年1998年度から非常勤講師として大学で中国語などを教え始め、現在に至っています。その間1999年に長男、2008年に次男を授かりました。

研究対象の変遷

 大学の卒業論文は、明末の思想家李贄(号は卓吾)の『焚書』という本に書かれている文学論について書きました。

 修士に入って、彼の名前を冠した「李卓吾評」に興味が移ります。「評」というのはコメントの事です。中国では小説などの本文の周囲にこれを付けて刊行することで、付加価値をつけて販売していたのですが、その中でも人気の評者が李贄でした。ただし、実際にはほとんどの「李卓吾評」が彼の名前に仮託したものだとされています。その中で、『水滸伝』の「李卓吾評」には、本当に彼が付けた可能性が高いものがあるということで、研究対象としたのですが、やはり誰が書いたかはっきりしないものは研究しにくい部分もあり、博士課程では、この点がはっきりしている金聖歎という人物が『水滸伝』につけた「評」を研究することにしました。

 「金聖歎評」が付いている『水滸伝』を刊行したのが「貫華堂」という書店で、当サイトの名前の「貫華」という部分はここからもらっております。当サイトの本館(貫華庵)に金聖歎関係の資料が多いのも、これが理由です。貫華堂で刊行された金聖歎本『水滸伝』については、以前「明末に作られた最初の七十回本「貫華堂本」は如何なる版本か」という文章(論文ではなく、一般向けの短い文章です)を某ムックに書き、それをネットでも見られるようにしてありますので、興味のある方は是非どうぞ(タイトルからリンクしています)。

 その後、明清小説を日本人がどのように受け入れて来たのかという、いわゆる受容研究に興味が移り、現在はその中でも児童書の『西遊記』を研究対象としています。それで、ネットでも児童書西遊記のデータベースを作ったり(日本の児童書西遊記)児童書西遊記の変遷を書いたり(僕たちが読んだ西遊記)しているというわけです。

 何卒よろしくお願いいたします。