招安に対する金聖歎の見解とその社会背景 [ 要旨 ]

 「招安」とは、賊軍を招撫して罪を赦し、官軍に編成することであり、中国では歴代、盗賊・叛乱への対策としてしばしばこの政策が行われた。そして周知のとおり、金聖歎が七十回本を作成する以前の『水滸伝』において、招安は宋江ら梁山泊の好漢達の運命を大きく変化させる役割を果たしている。

 しかし、金聖歎はこの招安に対して強く反対しており、この為に金聖歎は招安の場面を含む『水滸伝』の後半五十回を切り捨てたのだと主張する先行研究も存在する。それでは金聖歎は何故、招安に反対したのであろうか。本稿はその原因について考察を試みたものである。

 これまでの研究では、金聖歎の招安に対する否定的な見解は、叛乱が頻発する当時の社会情況に対する危機感から生じたと考えられてきた。このような見方は、金聖歎評とそれをとりまく社会情況を見れば、確かに説得力を持つように思われる。

 しかし金聖歎本以前にも叛乱の頻発する時期に作られた版本は存在するが、招安に対しては寧ろ肯定的な見解が示されている。このことから、招安の是非をめぐる見解の相違は、叛乱の頻発による社会的危機感の有無からだけでは説明できず、寧ろ同様の危機感を背景としながらも、人材登用方法や招安の有効性などに対する見解が両者の間で相違したことに由来すると考えられるのである。

 ただし、金聖歎が『水滸伝』に評を施した崇禎年間の社会情況が、彼の招安に対する見解に影響を与えたことも完全には否定できない。例えばこの時期、朝廷が叛乱を招安によって収めようとして失敗を繰り返したり、招安に対して賊が偽装投降をする事件が頻発したりしており、これらの事が、賊の投降や招安に対する金聖歎の批判と警戒感を強めたことは想像に難くないからである。

 つまり当時の社会情況から金聖歎による招安反対を説明しようとするならば、叛乱の有無よりも、寧ろ招安をめぐる情況の差異を根拠とすべきではないかと思われるのである。

[中国中世文学研究四十周年記念論文集』、307-318頁、2001年10月25日