前項では宇野浩二の西遊記が20点ほど刊行されていることを述べましたが、その殆どは他のいずれかの本と内容が概ね一致しており、20種類もの本がある訳では決してありません。それでは、内容が概ね一致しているものを1種類と見なすと、宇野浩二西遊記というのは何種類あるのでしょうか。前項で挙げた書籍を分類し、それぞれについて簡単な説明を加えてみたいと思いますが、今回はそのうち、筆者が(勝手に)「事繁本」と名付けたものと「腰斬本」と名付けたものについて紹介します。
宇野が初めて西遊記を書いたのは、A(前項参照以下同じ)、つまり雑誌『童話』での連載ですが、これを各出版社で書籍に纏めたのがB・D・G・Kであり、このKを再刊したと思われるのがOです。以上を前項から抜き出して、もう一度並べてみると以下の通りです。
A・1920~1923年 「西遊記」(雑誌『童話』(コドモ社)への連載)
B・1926年 『西遊記物語』(春秋社、世界名著撰家庭文庫)389頁
D・1932年 『西遊記物語』前篇・後篇(春陽堂、春陽堂文庫36・37)188+198頁
G・1941年 『西遊記』(主婦の友社、世界名作家庭文庫15)444頁
K・1951年 『西遊記物語』(大日本雄弁会講談社、世界名作全集14)374頁
O・1961年 『西遊記物語』(講談社、世界名作全集14)357頁
これらの本は、採用された挿話が完全に一致しており( 「日本の児童書西遊記」参照。B~Kについては、書名からリンクしておきます)、文章は、語句の削除・追加・変更が見られるものの、推敲の範囲を出るものではないことから、同じ本(の別バージョン)と言っていいと思います。
これらの本は原作の挿話の多くを残しているため、ここでは仮に「事繁本」(挿話の多い本)と名付けておきます。省略された挿話は以下の通りです(筆者の分類による)。
B02 陳光蕊故事 / B03 魏徴、龍を斬る / B04 太宗、冥界へ / C08 四聖、禅心を試す / C14 黒水河の龍 / C17 独角兕大王 / C20 にせ悟空 / C24 小雷音寺の黄眉童児
事繁本に採用されていない上記の挿話は、他の著者による子ども向け西遊記においても特に採用頻度が高いというわけではないので、挿話の選択傾向は、ごく一般的なものであるといえるでしょう。
なお、宇野の西遊記は、中国語で書かれた原作を訳したものではなく、『画本西遊全伝』(別名『絵本西遊全伝』『絵本西遊記』、序章第3項・及び第4項 参照)か、それに近い本を元に書かれたものと考えられます。なぜなら、宇野は1945年4月23日に織田作之助に宛てた書簡で以下のように述べているからです。
『水滸伝』や『西遊記』(もつとも『西遊記』の原作は日本語で読めるものとは大へん形式がちがふさうですが)、は、荒唐無稽の面白さで、文章が僕のいふ普通の文章で書かれ、筋の変化、人物の奇怪さにかかはらず、作者が無邪気(と思ひます。僕は)に書いてゐるところに、たまらない面白さがあるのではないでせうか。(増田周子『宇野浩二書簡集』p.76、和泉書院、作家の書簡と日記シリーズ1、2000年)
ここで、宇野が「原作は」「ちがふさうですが」と伝聞の形で書いているのは、彼が少なくともこの時点まで「原作」(ここでは「日本語で読めるもの」ではないもの、則ち中国語のもの)を読んでいないことの証拠となるでしょう。そして宇野が最初に書いた西遊記を雑誌に連載していた1920年から1923年以前に刊行された翻訳本西遊記の中で、宇野が採用した挿話を全て含んでいて、かつ広く流布していたものとしてまず挙げられるのが、文章は簡略化されているものの、『西遊真詮』掲載の挿話を全て採用している『画本西遊全伝』なのです。おそらく宇野はこの本か、これに近い翻訳本を底本にして、彼の西遊記を書いたのだと考えられます。
これまで述べた事繁本とC19 「西梁女国と琵琶洞の蝎精」まで概ね同内容なのですが、その後をばっさり切り取るという、腰斬(『水滸伝』70回本のように、話を途中で斬ってしまうこと)ともいえる方法で挿話を削減しているのがHです。
H・1947年 『名作物語 西遊記』(光文社、少年文庫)214頁
C19まで、というのは前編・後編に分かれているD『西遊記物語』(春陽堂文庫)の前編(D1)と同じところまでなので、HはAやBではなく、D1を元に作られたのかもしれません。Hについては、ひとまず「腰斬本」と名付けておきますが、「事繁本」の一種、あるいは亜種と考えることもできそうです。