今回の「金陵乙」で「緑蔭雑筆」(『新小説』28巻8号、大正12年)に収められた作品は終了です。狐の力を悪用しようとした男の話。『聊斎志異』巻九に収められています。
綠蔭雜筆 伊藤貴麿
金陵乙
金陵に酒賣の乙と云ふ者があつた。いつも酒を讓す時、水をくんで其の中に藥を入れると、直ぐ良い酒が出來て、二三杯飮むと泥のやうに醉ふので、酒造りの名人の名を取り、巨萬の富を造つた。
彼が或る朝早く起きて見ると、一匹の狐が酒槽の側に醉ひ潰れて居たので、四つ脚を縛つて、方に刀を取らうとして居る時狐は眼を醒して、哀願して云つた。
「どうか赦して下さい。どんな御用でも致します。」
そこで乙が繩を解いてやると、忽ち化けて人の姿になつた。其の頃近所の細君で、狐に崇られて居る者があつたので、訊ねて見ると、答へて云つた。
「あれは私の業なんですよ。」
乙は其の細君が優れて美しかつたので、自分の手に入れて吳れるやうに狐に云つた。狐は初めは拒んだが、乙が餘り固く求めるものだから、狐は乙を連れて、一つの洞穴の中へ這入り、茶色の着物を乙に授けて云つた。
「これは私の兄責の遺していつた物なんですが、さあこれを着てお歸りなさい。」
乙はそれを着て歸つて來ると、家人が皆自分の姿を認め得ないやうであつた。そして、常の着物に着變へると、又元通り見現はされた。乙は大變喜んで、狐と一緖に其の美しい細君の居る孫氏の家へ行つて見ると、壁の上に大きな護符が貼つてあつて、其の畫は龍が蟠つて居るやうであつた。と狐は懼れて云つた。
「和尙の畜生奴!俺れは駄目だ往けない。」
そして遂に逃げ去つて了つた。乙はそろそろそれに近附いて行くと、本當の龍が壁に蟠つて居て、今にも首を上げて飛びかゝりさうなので、仰天して逃出して了つた。
孫氏の家では、先きに一人の異域の僧に遇つたので、狐を調伏して貰ふ事にしたのであつた。僧は護符を授けてひと先づ歸つて行つて、乙と狐が行つた時は未だやつて來て居なかつたのだつた。次の日に僧が來て、壇を設けて、調伏の法を行つた。近所の人々は皆これを見て居たが、乙も又其中にまぢつて居たと遽に顔色を變へて、急に奔り出し、何かに追詰められて居るかのやうであつた。そして門外迄行つて、地上にばつたり倒れて、化して狐の姿になつたが手足に未だ人間の衣を著けて居た。皆が寄つてたかつて殺さうとしたが乙の妻子が懇願したので、僧はそれを引取るやうに命じて行つて了つた。家人は每日それに飮食を與へて居たが、數日經つて死んで了つた。