貫華齋

西遊記・金聖歎・中国古典小説

宋江評価に見る金聖歎評の一特徴 ―金聖歎評に関する先学の論点整理を手掛かりとして― [ 要旨 ]

 『第五才子書施耐庵水滸伝』に施された金聖歎評が、他の『水滸伝』評と大きく相違している点として「梁山泊の首領・宋江に対する評価」が挙げられる。李贄など金聖歎以前の人物による評価では、宋江は「忠義」の人と見なされ、一部例外を除いた多くの場面で賞賛の対象となっているが、金聖歎は一転して宋江を徹底的に批判し、その主張を貫くために、評語に対して主体的関係にあるべき『水滸伝』本文にまで、至る所で改作を行っている。金聖歎がかかる行為に及んだ理由について、先学によって提出された論点を整理しつつ、考察を試みたのが本稿である。

 まず、金聖歎の宋江批判の原因について述べた先行研究を整理・検討すると、金聖歎の宋江批判には(A)盗賊の首領であったことを批判するものと(B)宋江の個人的資質を批判するものが存在することが判るが、①宋江以前に梁山泊の首領であった晁蓋に対しては、宋江と同程度の批判を示しているとは思えないこと。②宋江以外の「賊」に対しては、落草に同情したり、貪官への反抗を賞賛する箇所が指摘されていることから、(B)は(A)よりも重要な位置付けをされていたのではないかと考えられる。

 そこで、宋江個人に対する評価をさらに検討すると、宋江が「朴誠」ではないこと、そして故意に「朴誠」を装い、自ら「忠」・「孝」を言う欺瞞性に対して主に批判が加えられていることが判った。

 では、金聖歎がそれまでの評者とは異なり、宋江の欺瞞性に着目したのは、如何なる視点によるのだろうか。次にこの問題を、金聖歎本以前の版本における宋江評――『忠義水滸全伝』の評語や李贄による評価――との比較を通して検討した。その結果、『全伝』評者や李贄の人物評価が、国家などの大局的な視点から考察を行い、個人の評価へと集約させる傾向が見受けられるのに対して、金聖歎のそれは、あくまで個人の言動・資質そのものに着目する所にその視点の特徴があることが明らかになった。

『 集刊東洋学 』 第81号、64-77頁、1999年5月30日