伊藤貴麿関連資料(1)「虎の改心」

twitterでお知らせしたとおり、柏書房から『赤い鳥事典』が出版され、私も「伊藤貴麿」の項目を担当させていただきました。伊藤貴麿は岩波少年文庫『西遊記』の翻訳で知られている児童文学家・翻訳家で、『西遊記』の他にも数多くの童話作品や翻訳などを発表し、1967年に亡くなっています。

赤い鳥事典』の原稿を作成する際に、副産物としていろいろな資料ができたのですが、そのまま放っておくのももったいないので、サイトで公開したいと思います。

まずは彼の文章から。『赤い鳥』第11巻3号(1923年9月)に掲載された「虎の改心」です。『聊斎志異』の「趙城虎」を原作として「自由訳」したものとなっています。この作品は『赤い鳥』掲載後も『孔子さまと琴の音』(増進堂、1943年)など、何度か童話集に収められています。ここでは、『赤い鳥』掲載時の文章をテキスト化したものを載せたいと思います。

テキスト化にあたっては、表示の関係で「々」以外の踊り字は通常の文字になおし、ルビを省略してありますが、その他のかなづかいや、使用されている語句等につきましては、そのままにしてあります。そのため現在の基準からすると不適切な表現も見られますが、あらかじめご了承ください。

なお、伊藤貴麿及び、「虎の改心」についての詳細は、是非『赤い鳥事典』でご確認ください(笑)。

虎の改心     伊藤貴麿

   一

 昔支那の趙城といふところに、正直な一人のお婆さんが住んでをりました。もう年は七十二三で、よぼよぼしてゐましたが、その獨り息子が大へん孝行者だつたので、安樂にこの世を送つてゐました。
 所がある日、その息子が山へ登つたきり、ふつつりとどこへ行つたものか姿が見えなくなりました。お婆さんは每日々々悲しみに暮れて、可愛い息子の歸りを待つてゐましたが、とうとう歸つて來ませんでした。多分、近所の山に住んでゐる、恐しい虎に喰はれたのであらうといふことでした。お婆さんはいつ迄も泣き悲しんで、近所の人も慰めやうもない有様でした。
 或日、お婆さんはもう氣違ひのやうになつて、町のお役所へ駆け込んで、わんわん泣いて、お役所の長官に訴へました。
「お婆さん、お氣の毒ぢやが、虎にはどうも法律はあてはめられんからなァ。」
 長官はうるささうにかう言つて、お婆さんに取り合ひませんでした。お婆さんは淚ながらに、長官の袖にすがつて、どうしても放しません。
「うるさい奴ぢや。こりやこりや、この婆ァを追ひ出してしまへ。」と、長官は怒つて呶鳴りましたが、
「お願ひでございます。お慈悲を下さりませ。」と、お婆さんは體を震はし、ぢだんだ踏んで泣き叫んでやみません。長官も困りはてましたが、正直さうな可哀さうな、こんな年寄りに、ひどいことも出來ませんので、とうとう虎狩りをすることを約束しました。が、お婆さんは、虎狩りの命令書が出るまではどうしても歸らないと言つて動きません。仕方がないので長官は左右にゐた役人共に申し渡しました。「どうぢや、お前たちの內に、虎を生捕りにして來る者はないか。」
 すると、「高が虎一匹、俺樣が出掛けりや譯はねえ。」と、長官の側にゐた、その日何かのお祝ひの酒に醉つぱらつてゐた一人の役人が申しました。そこで長官は、虎狩りの命令書を書いて、その男に下げました。お婆さんは喜んで、何度も何度も、お禮を言つて歸つて行きました。

   二

 その役人は、家に歸つて、酒が醒めてから、命令書の事を思ひ出して眞蒼になつて慄へ上りました。が、これはきつと、長官がお婆さんの前で、一時しのぎに餘儀なくしたことに違ひないと思ひ直しました。そして、翌る朝役所に出るとすぐに、長官に命令書を返上しようと致しました。すると、長官は眞赤になつて彼を睨み附けて
「こりや、貴様は昨日、あれ程の大言を吐いたぢやないか、この橫着者め。一たんお上が命令書を出して、それを引つ込められると思ふか。」と、大へんな劎幕で叱り付けました。役人は縮み上つて、爲方なく大勢の獵師を雄めて、しぶしぶ虎狩りに出ることになりました。
 彼は每日每夜、山を駈けたり谷に寝たりして、虎を搜しましたが、なかなか見つかりませんでした。
それかといつて、歸つて來れば、長官が鞭で、びしびし打つにきまつてゐますので、どうすることも出來ません。一月餘りも一生懸命に狩り暮したあげく今はもう望みも絕えてしまひました。或日、途方に暮れた彼は、山のお社の前に獨り額づいて、悲しげな聲を絞りながら、絕え入らんばかりにお祈りして虎を授るやうに願ひました。
 暫くして、彼がやつと身を起して、お社の門を出ようとしますと、不思議や、突然虎が立ち現れて、こちらへのそのそと近附いて參ります。彼はびつくりして立ちすくみ、わなわなと慄へ出しました。しかし、虎は別に飛びかからうとはしないで、そこにおとなしくうづくまつて、彼の方を何か意味有りげにぢつと見上げてゐました。それで彼もだんだん氣が落着いて來て、わざと威高げになつて申しました。
「こりや、こないだ人を喰つたのは貴様だらう。さあ、さつさと俺の繩にかかつてしまへ。」
 實は彼は、虎に打ちかかつても、とても勝てさうになかつたので、慄へながら空威張りにかう言つて見たのです。すると不思議なことに、虎は眼を伏せて首を縦に振り頷いて見せました。そこで彼は、おづおづと近附いて、びくびくしながら繩をかけました。引き立てて見ますと、まるで犬のやうにおとなしく彼について步き出しました。
 彼はその虎を引いて山を下り、長官の前へ出て、長官にこの不思議な話を致しました。
 長官は虎を柱に縛つて置いて、早速お婆さんを呼びにやりました。お婆さんは喜んで飛んで來て、
「さあ、仇敵を打つて下さい。虎を殺して下さい。」
と、虎を見て一づに急き込んで言ひました。しかし長官は、山のお社にお祈りしたら、虎が自分から出て來て、おとなしく縛られたといふ話を聞いてゐますので、うつかり早まつて虎を殺すことは出來ないと思ひましたので、虎によく言つてきかせるやうに口を開きました。
「お前は、人を喰ひ殺せば、又お前も殺されることを知つてゐるだらう。」
 すると、虎はちやんとその言葉が解つたやうに、しきりに首を振りました。長官はますます不思議に思つて又言ひました。
「お前は一人の男を喰ひ殺したばかりぢやないぞ。このお婆さんは、可愛い息子をお前に喰はれたので、もう生きてゐる甲斐もないのぢや、それに息子を失へばもう誰もこのお婆さんを養ふ者もないのぢや。」
 かう長官が虎に言つてきかせますと、虎は後悔したやうに、だんだん頭を下げて、面目なささうに小さくなつてうづくまりました。長官は世にも不思議なことがあるものだ、この虎はきつと山の神様の家來に違ひない、と思つて、どうか命だけは助けてやらうと思ひました。それで、
「こりや、お前は、お前の喰つた息子の代りになつて、このお婆さんが養へるかどうぢや。もし、きつと養へると誓へば、放してやるがどうぢや。」
 すると、虎は又頷きました。それで長官は家來に命じて、虎の綱を解いて、自由にしてやりました。虎は幾度も振り返り振り返り、のそのそと山の方へ歸つて行きました。すると、お婆さんは躍起になつて、
「どうぞ、仇敵を取つて下さい。虎を殺して下さい。」と、せがみましたが、長官は色々となだめて、いつ迄も繰り言を言つてゐるお婆さんを、無理やりに追つ拂つてしまひました。お婆さんは爲方なく、しぶしぶ自分の家へ引取りました。
 あくる朝、お婆さんが家の戶を開けますと、門口に生々しい鹿の死骸が橫になつてゐました。お婆さんはびつくりしましたが、よく考へて見ると、それは昨日の虎が持つて來てくれたに違ひありません。お婆さんはその鹿の肉や皮を賣つて、暮しのお金を得ました。それからも、時々色んな獸がお婆さんの門口に置かれるやうになりました。お婆さんはそれを賣つては、お金に換へますので、前に息子が働いて養つてくれた時よりも、暮しは却つて豐になつてお金も溜るやうになりました。それでお婆さんは、虎を自分の息子のやうに可愛がるやうになりました。虎も時々、晝の間でもお婆さんの所へやつて來て、一日中軒の下などに寢たりしてゐるので、しまひには、近所の人も、犬や猫なども、虎をちつとも恐がらないやうになりました。
 四五年經つて、お婆さんが死んだ時には、溜つてゐたお金で、立派な葬式が出た程でした。葬式の日町の人たちがお婆さんの死骸を立派な棺に納め、大勢で擔いで郊外へ行き、土饅頭を拵へて、いよいよ棺を納めようとしてゐますと、二三日前から姿を見せなかつた虎が、急に山からまつしぐらに飛んで來て、みんなの間にばつと飛込みました。みんなは思はず、あつと聲をあげて逃げまどひました。と、虎はいかにもしほしほとして、塚の前に這つて行つて「ウオウウオウ。」と、悲しげな聲を張り上げて嗚きました。そして一と晩中、嗚き續けてゐました。その何とも言へない悲しい聲は、町中によつぴて轟き渡つてゐました。
 その後、虎はどこへ行つてしまつたのか、町の人は誰も姿を見なかつたさうです。今でも、この趙城へ行くと、町の東のはづれに、この虎を祭つた、「義虎祠」といふお堂が建つてゐるさうです。(をはり)


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