『忠義水滸全傳』における「李卓吾先生評」の人物評価について [要旨 ] 

 宮内庁書陵部蔵本『忠義水滸全傳』不分巻百二十回に付された「李卓吾先生評」は、先行する版本と比較すると、宋江(梁山泊)側の人物をより高く、敵対者をより低く評価する傾向が指摘されており、一見、宋江側か否かという立場に依拠して人物評価が行われているように見える。

 しかし評語の中には、宋江側か否かという立場はもちろんのこと、評価される人物の人格や評価対象となる行為の善悪さえも度外視して付けられたものも少なからず存在している。そこでそれらの評語を検討してみると、悪人でも能力が高ければその点を評価し、善人でも無能であればそれを批判するというように、能力を基準とした評価が行われていることがわかる。では評者は何故、登場人物の立場や善悪との矛盾を生じさせてまで、このような能力主体の評価を下したのであろうか。

 評者は評語の中で、無能な高官を批判し、有能な人材が正当な扱いを受けないことにしばしば憤りを表している。このことから、無能な人物が権力を独占し、有能な者が排除される『水滸伝』中の社会情況(あるいは現実社会もそうであったかもしれない)を評者が嘆き、能力に応じた公正な人材登用を主張していることが窺える。従って、登場人物を評価する際に能力主体の評価を行ったのも、このような嘆きと主張の一環なのではないかと考えられる。

 なお、評者が「李卓吾先生」を名乗ることから、あわせて拙論と李贄の思想との関係についても若干言及した。

 能力を基準にした人材登用を行うべきだとする考え方は、李贄が『焚書』巻三「『忠義水滸伝』序」で述べる、能力が高い者こそ上位に立つべきとする主張と概ね共通する。従って、もし評者が李贄であるならば「『忠義水滸伝』序」で述べたのと同様の考え方から、能力を基準とした人物評価を行ったのであろう。また、もし評者が李贄ではないのならば、評者は李贄の能力を重視する考え方を「『忠義水滸伝』序」などから把握し、それに沿った評価を行うことで、「李贄らしさ」を演出したのだと考えられる。

『中国古典小説研究』第4号、19-29頁、1998年12月20日