明の崇禎年間に登場した七十回本は、その後徐々に読者を獲得し、清末には他の版本を完全に圧倒することになるが、その最初の版本は金聖歎(一六○八―一六六一)によって作られた貫華堂刊『第五才子書施耐庵水滸傳』(通称「貫華堂本」又は「金聖歎本」)である。
金聖歎は百二十回本の第七十二回以降を削除し、底本の第一回を「楔子」とし、第二回を第一回として以下一回ずつ回数をずらして全七十回とした。そして概ね以下のような内容の新たな結末を用意して「梁山泊大聚義」の後に置いたのである。
「梁山泊大聚義」を皆で祝ったあと、盧俊義は夢を見た。夢の中で嵆康を名乗る男が「汝ら賊を捕まえに来た」という。盧俊義はこれに立ち向かうが、ついに捕らえられ、裁きを受けることとなる。裁きの段になると、宋江ら百七人が泣きながら連行されて来る。盧俊義がどうしたことかと段景住に問うと、「員外様(盧俊義)が捕らえられたので、皆で降伏し、あなたのお命を救おうというのです」と答える。それを聞いた嵆康と名乗る男は「おまえらを赦したら、如何なる法によって天下を治めるというのだ」と罵り、百八人をすべて斬刑に処す。ここで盧俊義が驚き目を覚ますと、そこには「天下太平」と大書された額があった。
さて、この七十回本、後半が五十回近く削除されていることから「簡便さ」を意図した版本であると思われやすい。例えばある概説書には「百二十回本というのはたしかにかなり大部のものだから、これが半分ちょっとほどになれば本屋も出しやすい」という記述もみられる。しかし実はこの版本、百二十回本よりも大部なのである。実際に百二十回本の第一回から第百二十回までの葉数と貫華堂本の楔子から第七十回までの葉数(一葉=紙一枚=二頁)を数えてみると、百二十回本が千八百四十三葉、七十回本が千九百四十七葉であった。つまり本文に限定していえば「半分ちょっと」どころか金聖歎が作成した版本はその底本と考えられる版本よりも葉数が増加しているのである。
実は貫華堂本では一頁あたりの文字数が減らされ(文字が大きく立派になる)、評については内容を充実させるとともに、経書や史書など「まっとうな」書物(当時白話小説はまともな書物と見られず白眼視されていた)に用いられていた(が、紙面はより多く必要とする)割注形式を採用しているのである。
また、貫華堂本には三つの序文と(金聖歎が偽作した)施耐庵序のほか、「読第五才子書法」「宋史綱」「宋史目」といった文章が巻首に置かれているが、それらは、明代の科挙における『四書』の標準解釈を示したとされる『四書大全』の「読大学法」「読中庸法」等の文章や、朱熹がその名分論的立場による褒貶の意を綱(大綱)と目(細目)とによって示したとされる『資治通鑑綱目』などに倣ったと考えられる。
このような「贅沢な」版本形式や経書・史書の模倣からは、文人が読んでも恥ずかしくない「まっとうな」『水滸伝』を作ろうとした、金聖歎の意図が垣間見えるのではないだろうか。