貫華日記Ⅱ

Wikipadia の 水滸伝

少し前の話になりますが ( 9月7日ですね ) 、ITmedia というサイトに オンライン百科事典から総合リファレンスサイトへ――躍進するWikipedia という記事が出ておました。その中で、 「 特定のトピックの背景を調べたり、論争の決着をつけようとする人々に好んで使われる場としてのWikipediaのステータスの上昇 」 という表現があったので 「 へえ、信頼性がupしてるんやなあ、どれどれ 」 と、 「 水滸伝 」 の項 を見てみました。

が、少なくともこの項に関しては、よくまとまってはいるものの、これで論争の決着がついては困るような内容でした。以下、一応大きな問題点だけいくつか指摘しておきます。

「 水滸伝の来歴 」 の部分

> 15世紀頃にまとめられた水滸伝では

現存する小説 『 水滸伝 』 は、部分的にしか残っていないものを含めても嘉靖年間 ( 1522-1566 ) 以降のものしかありません。それどころか嘉靖年間以前には小説の書名として記録さえ残っていません。ですので、現存する内容の小説 『 水滸伝 』 が15世紀に成立していたというのはスタンダードな立場ではないと思います。
上の文で指す 「 水滸伝 」 が現存する小説 『 水滸伝 』 を指すのでなく、なにか未知の 『 水滸伝 』 のことであれば 「 15世紀にまとめられた 」 可能性もないことはないのですが、あとに続く文を見る限り、現存する 『 水滸伝 』 をさしているように読めます ( 書いてある内容が万暦年間 ( 1573-1620 ) に成立した『忠義水滸伝』の内容なので ) 。

註: 王麗娟 「 『 水滸伝 』 成書時間新証 」( 湖北大学学報 2001-1 ) では 『 水滸伝 』 の成書時期は嘉靖3-9年の間といわれています。

「 水滸伝のテキスト 」 の部分

文簡本 ( ダイジェスト版だが広く流通した ) に全くふれていないのもどうかと思うのですが、七十回本の成立についての部分に問題が多いように思われます。

> 清の時代の17世紀に、古典批評家の金聖嘆は100回本のうち物語が面白い部分は梁山泊に108人が集う第69回までであると判断し、69回に自身が書き改めた第70回を最終話として付け加えた70回本を作り、出版した。

まず、金聖歎の七十回本の底本はおそらく百二十回本だと思われます ( 宋江が妾閻婆惜を殺すエピソードの位置が百回本(容與堂本)と百二十回本では異なり、七十回本は百二十回本と同じ位置 ) 。まあ、厳密に言えば上の文は底本が百回本と言っているわけではないのですが、誤解を招きそうな書き方です。

さて、ここまでに挙げた二点は 「 一般的ではない理解だなあ 」 ということなのですが、明確に間違っているのが、上の引用文中に書かれた七十回本の作り方。
七十回本は百二十回本の六十九回までを採用したのではなく、七十一回までを元につくられております。
まず百二十回本の第一回を「楔子(せっし)」とし、百二十回本の第二回を七十回本の第一回に、第三回を第二回に...とずらしていき、百二十回本の第七十一回を第七十回として、その第七十回に独自のエピソードを加えたものが七十回本なのです。

以上、三点ほどあげてみましたが、他にもこまごまと気になるところがあり、ちょっと論争の決着をつけるにはどうかな、という感じです。
Wikipedia はだれでも編集出来るようなので 修正すればいいんでしょうけど、他人のサイト ( ? ) いじるのって抵抗あるんですよねー。
まあ、 「 水滸伝 」 なら普通の百科事典にも項目があるでしょうし、詳しいサイトやいい解説書もいろいろあるので、そちらを見ていただくということで。

やはり Wikipadia が本領を発揮するのは普通の百科事典には載っていないような項目 ( どらえもんキテレツ大百科 ) なのかもしれません。